ロケット打ち上げやサーフトリップで南種子町に観光に来た場合、「赤米館」も是非来て欲しいのですが、この赤米館のすぐ裏に、西南の役(丁丑役(ていちゅうのえき)の招魂碑(しょうこんひ)が有ります。地元の方も滅諦こないかと思いますが、意外な穴場です。
南種子町名物の赤米館と、西南の役(丁丑役)の招魂碑をまとめて紹介します。
南種子町の赤米館、その裏にある西南の役(丁丑役)の招魂碑も是非見てください
南種子町の赤米館について
種子島の南種子町には、赤米伝説があり、赤米館が有ります。
赤米伝説は、「種子島の豊満様(豊満神社)と傲慢の池にまつわる悲しき玉依姫伝説」の記事に詳しく書いてあります。
こちらも是非お読みください。
赤米館の場所はここです。何と豊満神社入口の真向かいですから、赤米館と豊満神社とセットで刊行されると良いでしょう。
赤米館の詳細情報
赤米館は、南種子町で運営されています。
南種子町役場から、赤米館の資料を引用します。
施設紹介
遙か昔に南方よりこの地に伝わった赤米の資料館。赤米にまつわる民俗行事や地域の稲作などについて紹介しています。映像シアターでは、南種子町の見所や芸能、行事などを見ることのできる「南種子町浪漫紀行」を放映しています。また、館内で赤米や民具を販売しています。赤米伝統文化交流
全国で3か所に伝わる赤米文化の継承のため,赤米伝統文化交流事業を行っています。/bq]
赤米伝統文化交流
全国で3か所に伝わる赤米文化の継承のため,赤米伝統文化交流事業を行っています。詳しくは,下記ホームページをご覧ください。
赤米伝統文化交流
あまり人が居ませんのでゆっくりと中を見ることが出来ます。
休刊日は水曜日、営業時間は、9:00~17:00です。
営業中は、赤米館入口に登りが立っていますので、これが目印です。
赤米館入口に設置されている茎永地区の案内看板です。茎永地区を散策する際にご覧になると良いでしょう。
茎永 赤米の渡来地めぐり案内看板 Origin of Kukinaga's Red Rice: Tour Guide
看板の内容を紹介します。
種子島の東南端に位置する茎永地区は昔から稲作が盛んで、種子島の米どころとして知られています。
中でも種子島宝満神社は、米の原種とも言われる赤米を古くから伝承していることで知られ、現在でもこの地域では古式ゆかしい神事にのっとった赤米栽培や数多くの民俗芸能が受け継がれています。
(種子島宝満神社のお田植祭は、「国の記録保存などの措置を講ずべき無形民俗文化財」に選定されるとともに、 鹿児島県指定文化
財にも指定されています。)
国内で現在も赤米栽培が伝えられているのは、宝満神社
つしま
つつたくずだまじんじゃ
そうじゃ
のほかに、 長崎県対馬市豆酘多久頭魂神社(つしま
つつたくずだまじんじゃ)と岡山県総社市(そうじゃしんぽんくにしじんじゃ)、新本国司神社の3カ所だけです。
なかでも茎永に伝わる赤米は、 ジャポニカ種でもインディカ種でもない特別な赤米で、ジャバニカ種という東南アジアにルーツを持つ品種と言われ、全国でもここにしかない貴重なものです。
宝満神社の御祭神である玉依姫が稲を携え、 舟でこの地にやってきたという伝説も残されていて、この赤米は、その昔、 南方から海上の道を渡って伝わったとする説があります。
玉依姫を祀る宝満神社の一帯はうっそうとした森に覆われ、神聖な雰囲気を漂わせています。
神代の昔からの文化・歴史が、この地では今もなお大切に守り継がれていることを感じさせます。
(以下詳細略しますが、参拝コースの所要時間などが明記されています)
鹿児島県指定文化財種子島南種子町宝満池鴨突き網猟
赤米館入口の茎永地区の案内看板鹿児島県指定文化財種子島南種子町宝満池鴨突き網猟
ほうまんいけまとりつきあみりょうほぞんかい
保存団体:宝満池鴨突き網猟保存会
平成26年4月22日指定
毎年、冬になるとシベリアから鴨が日本列島に飛来します。 その鴨を捕獲する伝統的な猟法である突き網猟は、全国でも数カ所しか伝承されておらず、 文化財の指定を受けたものは石川写真1 樹上に棚 (足場)を組み鴨を待つ猟師(写真2) 突き網を投げ上げ、 鴨を捕獲する。
(写真3) 県加賀市大聖寺の片野鴨池の坂網猟法と用具 (県指定)、 宮崎県宮崎市佐土原町の巨田池の鴨網猟(県指定)と種子島南種子町宝満池鴨突き網猟 (県指定)の三ヶ所しかありません。
猟は、三角形(扇形) の突き網を使い行います。
鴨は夕方に宝満池から餌場である田んぼに
群れで飛び立ち、 明け方に池に帰ってきますので、その通り道の樹上から、飛来する鴨に向かって突き網を投げ上げ捕獲するのです。
猟期は11月15日から2月15日までとなっています。
この猟は、少なくとも江戸時代には行われていたことが種子島家の所有する古文書や宝満神社の縁起書から分かっています。
また、 宮崎県の巨田池の鴨網猟は種子島から慶長8年(1603年)に伝わったとされていることや、戦国時代の武将である上井覚兼の日記にこの猟のことが記されていることから、種子島でも400年(写真4 捕獲した鴨)以上前の戦国時代には既にこの鴨猟が行われていた可能性があります。
このように、古くから伝承されていて全国的にみても希少な種子島南種子町宝満池鴨突き網猟は、 踊りや行事以外では初めての鹿児島県指定無形民俗文化財となりました。
種子島南種子町宝満池鴨突き網猟
平成26年6月 南種子町教育委員会
写真5 何代にもわたり伝承されてきた鴨猟
写真6
御田の森
写真9 宝満池と鴨,、たねがしま赤米館、大綱でつかった鉄柱
(以下略)
種子島伝統の「豊満の池とカモ猟」の看板
宝満の池とカモ猟
Homan Pond and Duck Hunting
宝満の池は、周囲が 1,230m、 深さ 6m、 南北460m、東西 334mの海跡湖です。
ハスやヒシ、オニバスなど貴重な植物の宝庫で、冬になると遠くシベリアや中国東北地方からマガモ、コガモ、オナガガモなどが渡ってきます。
飛来するカモを狙い、この地では伝統的に「突き網猟」と呼ばれるユニークなカモ猟が行われてきました。
カモは、夜になるとタニシなどの餌を求めて池から水田へ飛び立ち、翌朝、池に帰ってきます。
餌を捕りに池から出る時と池に帰ってくる時を狙い、 扇形の網を投げる突き網猟は高度な技を要し、現在もこの猟が行われているのは、全国でも宝満の池のほかは石川県加賀市大聖寺片野の鴨池と宮崎県佐土原町の巨田池 (いずれも県指定文化財) だけです。
中でもここの突き網猟は、樹の上に足場を作り、 そこに身をひそめて猟をするという非常に難易度の高い猟法です。
昔は、大網を張り渡してカモを捕まえる猟も行われており、今も宝満の森には名残の鉄柱が立っています。
またハゴサシという鳥モチを塗った竹を水田の中に何本も立て、夜間にカモがかかるのを待つ猟も以前は行われていました。
宝満の池・伝統のカモ猟
つい最近まで、やっていた方が居まして、カモ1匹4,000円ほど(羽などは処理済み)で買わないか?と持ち掛けられました。
赤米館外観
赤米館のガジュマロ
放っておくととてつもなく広大な範囲に広がるガジュマロですが、樹高も押さえて有り、非常に手入れの行き届いたガジュマロです。
赤米館入口、もちろん入館無料
赤米館入口内部のウミガメ
入口にはウミガメと関東植物が迎えてくれます。これらも非常に手入れが行き届いています。
赤米館でビデオが視聴できます
館内の御担当者様に依頼すれば、種子島(南種子町)の歴史ビデオを視聴できます。
ロケット打ち上げ写真も有ります
最新の技術と古の田園耕作技術を目の当たりにすることが出来ます。
昔の農機具の実物展示
良くこんな古いものが、良い状態で残っていたと感心してしまいます。もちろん丁寧な修復作業が有ったかと思います。
他に沢山展示されていますが、全部紹介してしまうと現地に行く意味が薄れてしまいますので、ほんの一部だけの紹介です。
後は現地でのお楽しみです。
赤米や種子島の歴史書の販売コーナー
種子島の歴史書は、ちょっとお高めなので変えないのですが、サンプルは参照可能ですので、興味がある方は是非読んでみてください。
※私は長時間これらの本を読んでいますので、ウザがられているかも知れません。完読するのはだいぶ先になりそうです。
体にも良い種子島のお土産に赤米はいかがですか?
パンフレットも備え付けられており、詳しく書かれていますが、赤米はポリフェノールがブルーベリーや赤ワイン、コーヒーより数倍豊富で、タンニンはコーヒーや玉露よりも3~5倍も多く、GABAは玄米や白米よりも10~14倍も多く含んでいます。
赤米のおいしい食べ方
赤米は、白米に混ぜて食べると良いです。
白米1合に対し、大匙2杯程度で良いそうですが、赤米は白米より硬いので一晩赤米を水に浸けておくと良い感じで炊きあがります。
私がメッチャ好きな赤米アイス
私は、この赤米アイスが大好きなのですが、「売り切れ」が多いのが残念です。
3年ぶりの種子島で、久々に赤米アイスを食べようとしたのですが、「入荷待ち」でした。
販売していたらラッキーかも知れません。
豊満の池観望所
赤米館(豊満神社入口)から登坂を車で登ると、約500m先に豊満の池観望所が有りますので行ってみました。
豊満の池が一望できるはずですが、2024年5月時点で、雑草が生い茂っており、豊満の池は全く見えませんでした。
そのうち、南種子町役場が、ここの草刈りをしていただけることを期待しています。
西南の役(丁丑役)招魂碑について
歴史の教科書にも載っている「西南の役(丁丑役)」ですが、南種子町の方々も参戦しており、彼らの招魂碑が、赤米館のすぐ裏に有ります。
看板の内容です。
西南の役(丁丑役)招魂碑
Seinan Civil War Memorial
明治10(1877)年、 西郷隆盛を中心とする士族と明治政府との間に西南の役 (西南戦争) が勃発。
種子島からは四百数十名の兵士が西郷軍に加わり、地元の茎永からは 49名の若者が出兵、8名が戦死しました。
この碑は、亡くなった若者たちの霊を慰めるため、 明治11年5月建てられたもので現在でも、 招魂碑とその一帯は戦死した兵士の子孫によって管理されています。
平成22年9月には、子孫らにより東屋や参道、新たな石碑などが造築され 「西南戦争出征戦没者招魂杜公園」として整備されました。
西南の役招魂碑
Memorial for the Seinan Civil War Dead
当時書かれた 『茎永私学校日誌』には西南の役出陣前の様子が記されています。
This was recollected in the "Kukinaga Private School
journal" before departing for battle.
(以下略)
西南の役の招魂碑を歩いてみます
西南の役の招魂碑入口です。
西南の役の招魂碑入口を少し入ったところの鳥居です。
何と陣屋みたいな休憩所が有ります。どんどん進みます。
西南の役の招魂碑を歩いていくと、二つ目の鳥居が有りました。
しかしこの先は、大分枯れ草がたまっている様子。
西南の役の招魂碑の苔むした階段は、雨の日や雨の後はとても滑りそうです。最新の注意を払いながら進みます。
参拝者が居ないのか、西南の役の招魂碑のガチで滑る苔むした階段を上から撮影しました。
酢別を怪我をしそうですので、登る際は十分な注意が必要です。
西南の役の招魂碑の最終地点です。てっきりお社か何かあるのかと思っていましたが、石灯篭が立っていました。
松茸みたいな形の灯篭です。この意味は、看板等に書いてありませんでしたので現時点で不明です。
とにかく落ち葉とコケが凄いので、降りる時は最大限の注意を払って帰ってきました。
南種子町の赤米館、その裏にある西南の役(丁丑役)の招魂碑も是非見てください まとめ
南種子町の赤米館、その裏にある西南の役(丁丑役)の招魂碑の写真はいかがだったでしょうか。おそらく地元の方々も滅多に脚を踏み入れない西南の役(丁丑役)の招魂碑かと思います。
今度は放棄でも持って参拝しましょうか?
最後までお読みいただきありがとうございました。